きつね


蔵書検索を「狐」で検索。出てきた本を読む。

選んだのは、 あやしうらめしあなかなし / 浅田次郎 から、「お狐様の話」。 怪談。読んで。

ふつうの感想

「狐憑き」。なぜ人に憑くかは一切述べられないけれど、その訳のわからなさがなおさら怖さを増幅させているといえる。 霊狐は神の力をまとった神官をも倒してしまう。神をもものともしなくなってしまった邪な神のそこしれぬもの、 そして親にも、神官にも見捨てられてしまい、(これは人の怖さも表しているといえる) ただ自分の理性が失われ、狐のなすがままに獣になりつつあることを感じていることしかできない 少女と、その最期は非常に痛々しい。

伯母の語りという形で語られる物語と、その寓意、語りが終わった後の最後に筆者の感想である「言葉/祝詞」に対する思いのような ものも読む者の心をうつ。

頭のネジが外れたひとの感想

一度目は何もこの物語に違和感を感じなかったけれど、何度か読むと不思議な感覚になった。それは「窮屈さ」に似ていた。 そこでなんとなく気づいた。これは狐が解放を求めているのだなと。私の心はどちらかというとこの物語の人間ではなく、 狐の側に寄っている。

狐憑きの狐は拘束され、調伏され、駆逐されるべき存在として(なぜか)扱われる。 しかし、悪鬼悪霊のような描かれ方ではなく、あくまで狐として描かれていることにも注目したい。 つまり、ひたすらに破壊や殺戮を楽しみたいといったものではなく、実は何か意思(もっとも、人間のそれとは違うかもしれないが) がありはしないだろうか。この物語の狐も、神官/神を倒しても殺してはいないし、 米を一升食べる、酒をすべて飲み尽くす、井戸を飲み干して干上がらせる、等しているけれども、 だからといって少女をがんじがらめにして幽閉するのは何か違う気がする。

狐を抑えこもうと周囲にがんじがらめにされた結果、少女は自分の手首を食い、出血で落命する。 狐を完全に自由にし解放していたら何が起こったかは全くわからないけれど、また違った結末があったのは間違いない。

思うに、狐というのは「何が起こるかわからない/自分ではどうにもならないもの」の象徴ではなかろうか? どうしてそうなったかわからない状況や運、人との出会いと別れ、不確定な未来というのもこれにあてはまるかもしれない。 あるいは内在(「憑く」)し、自分の行動を支配しうるものとしての激情や望み。 実現するかもわからないようなふとした思いつき。
自分では制御しようのないもの、不確定で未知のものに人は底知れぬ不気味さを感じ、恐怖を抱き、時に取り乱し、絶望し、諦める。

一方でカミガミ/祝詞の世界というのは、これら不確定要素をできるだけ排除しようとするもの、 言葉、秩序というのはこちらに属すると思う。理性の象徴、人々から望まれるものでもあり、予測可能な未来でもある。

普段私は将来を見通そうとし、不確定要素をなくし、安心したがる。 だが、自分の中の狐をがんじがらめにしたのではいつかそれに耐えられなくなる時が来る。 あるいは周囲が自分と関わりが疎くなってしまったら? 普通に考えたら行き詰まった状況は?

"神"(比喩です)を圧倒する程の力を持つ"狐"。 一度開放したらどうなるかは、だれにもわからない。 でもそれこそが狐の力の源泉。若い時、自分の内なる狐を思い切り自由にしてもいいのではないかという気がしている。 少女は狐に侵食されていることを悲しんだが、私はむしろ狐を受け入れ楽しみたい。 狐に突き動かされるままに動けば、きっと周囲に迷惑がかかるし、場合によっては不気味がられ、正気を疑われるかもしれないが、 それでもいいではないか。 狐が自分に見せてくれる世界、思いもかけないこと、だれもみたことのないもの、を一人楽しむのもいいし、ひょっとすると 周囲にも思いがけないものをもたらすかもしれない。自分の予想しなかったモノ、結果を超えた結果、終わりを超えた終わりを見たい。 そうして行き着いた先が凄惨な人生でも、狐を抑えこもうとして悲しい結果になるのとどちらが良いかと問われれば自分の納得できる方を選びたい。 そもそも自分の人生がどんなものだったか振り返るのは"神"ではないと思う。

私は自分の"狐"を開放していきたいと思う。

2018年 4月 21日 土曜日 加筆・修正

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