読んだ:東欧の20世紀


立命館大学で主催されたの講演の論文集。 ヨーロッパの「東」。東欧という言葉からは元社会主義国でトルコやロシアよりも西側、 程度の理解しかなかったので読んでみた。 理工系の論文は有償で英文でしか読めずしかもPDFなことが多いが、 日本語で、しかも本の形で手に取ることができるのは贅沢な体験だと思った。

ここからはこの本に書いてあることをメインに書いていくが、 自分の読解力不足で誤認している部分があるかもしれないがご容赦願いたい。 それにしても2025年の今につながるテーマが多いものだ。また語るのをためらわれるテーマが多い。

序文

ヘーゲルの「歴史哲学講義」への考察から始まる。

ヘーゲルの書はこれまで並存していた諸歴史を「世界史」というまなざしで包摂した点において画期的だったが、 世界史が東に端を発し西で洗練され終わる、東は西の介入を受けなければならないという考え方は 植民地主義を肯定する暴力性をはらんでいたとする。

また、社会主義というとインターナショナル的価値観なのかと思いきや、マルクス=エンゲルスも 世界史の発展を予見し、それに伴って「東」の民族の滅亡さえも予言した。 また、ホロコーストも「東の民族を滅亡させる」という文脈に位置づけている。 進歩的な人々から反動的勢力に至るまで、東の蔑視はヨーロッパに通底するものの見方であったのだ。 さらに近年でもフクヤマの「世界史の終わり」論はヘーゲルの焼き直しである。

冷戦期の社会主義もこのような価値観を克服することはできなかった。 社会主義体制においても世界史と国民国家は共犯関係を結び、マイノリティ(東)の同化や追放によって ナチスを彷彿とさせるようなマイノリティの大量移送・殺戮は起こり得たし実際に起きたことであると指摘する。 また、国民国家と世界史にとって都合の悪いストーリーは忘却を求められ、顕彰されることは少なかった。

しかしこのような回収されない個人的記憶や集合的記憶が世界史に挑戦を挑むという可能性を秘めている。 また際限ないグローバル化により統一的世界史は解体されつつある。 国民国家の形成、マイノリティ迫害、体制転換などを経験してきた東欧を通じて世界史を論じることで 世界史の再考を促す。

この序文と次の『「マイノリティ」を「保護」するということ』はこの本全体の基調を宣言するような感じになっていて 読み手の心構えのようなものができ良かった。

何も終わっていない 東ガリツィア

旧体制下およびロシア支配下双方で「体制側である」という偏見に晒され、上からも下からも迫害されてきたユダヤ人の歴史が語られる。 バービィヤールという地名は不勉強にも知らなかったが、あまりの犠牲者数に気が遠くなるとともに、現地の民間人が虐殺に加担したというのは触れたくない歴史であろう。 また、最終盤はある本への痛烈な批判となっており、「迫害の現場にたまたま居合わせただけの人々」、「今は沈みかかったソ連から喜んで出ていく異邦人」という見方をするならばポグロムの原因となった偏見や憎悪、無関心は継続していて、根本的には何も変わっていないという絶望で締めくくられる。 イスラエル支持の姿勢は国内のユダヤ人への嫌悪と表裏一体なのではないか?という指摘は現在の問題に 肉薄している気がした。

ブルガリアの創氏改名と脱亜主義

日本で最も馴染みが深い東欧の国かもしれないブルガリア。 ブルガリアの中でも政治に翻弄されたトルコ系の人々に焦点を当てる。 旧体制で抑圧されていたので新体制(社会主義)の支持基盤になってほしいと宥和的だったのに 政権安定後は抑圧されるという流れは政治の無情が現れていると感じた。 時の政権によって政策に都合の良いように歴史も修正されてしまう。 「ブルガリアのトルコ人は元々ブルガリア人だったものが様々な時代に「トルコ化」したもので、 民族的一体化(=強制同化)は進歩的過程であり、ブルガリア愛国心を究極的に高める」 というテーゼが強制同化政策を補強した歴史が描かれる。 祖国に住む人々が無条件で法定共同体としての国民国家を形成する…という姿ではなかった。 また、イスラームをキリスト教に改宗させるという側面から政治と宗教の共犯関係 (社会主義は表向き無宗教なので話が複雑だが)が語られる。

ただ、社会主義崩壊後の現在は一元性追及が内省され、トルコ人を支持基盤とする政党が加わったり少数グループの文化を 擁護する運動の盛り上がりもあり単一民族主義とも決別する姿勢がある…という未来に希望が感じられる論であった。

ところで、なぜ「創氏改名」「脱亜主義」といった日本的タイトルが付けられているのだろうか。 これは日本の過去を日本は向き合って克服できているだろうか、という筆者からの問いかけが根底にはあるのではないかと思う。 しかしながら本文の過去への反省と未来志向から希望を持ちたい。 また前の「東ガリツィア」の論者との人間に対する見方の違いは鮮やかで、あえて対置したであろうアンソロジーの妙が光るなと思った。

ホロコーストと加害への加担

特に第三章に根底に流れるテーマ。それは(語りにくいのだが)ホロコーストはナチスドイツという異常な国家に罪を着せれば終わりなのか、 ということ(元からマイノリティ憎悪はあり、ポグロムへの加担があったということ)、そして戦後のドイツ人大量追放に対する 問題提起(ナチスドイツの罪を理由として国内ドイツ系住民を強制移送したのは別の罪ではないのかということ)であった。 自国内でも語りにくいテーマではあると思うが、社会主義崩壊とともに自国の負のナショナルヒストリーに向き合わざるを得なくなった、 という指摘は東欧に限らない普遍性がある。

ナチスドイツの台頭は「正常な世界史からの逸脱」であり、戦後に正常な歴史に復帰しつつある、という物語は 別の歴史(特にマイノリティの)を無視していないか?という問いかけは歴史観を考えるときに重要な姿勢ではないかと思った。

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